登入居室の床が最初に震えたとき、灰乃は水の入った容器へ蓋を戻しているところだった。小さな揺れはすぐに壁の内側を走る低い轟音へ変わり、天井から細かな埃が落ちてくる。LEVEL3へ上げたばかりの扉ではなく、部屋そのものが巨大な機械に掴まれ、どこかへ運ばれているような振動だった。壁面端末が強制的に点灯し、赤い枠に囲まれた通知が、閉じる操作を拒むように中央へ固定される。
〈居室LEVEL3到達者の選別を完了しました〉
〈高危険区域への強制転送を開始します〉 〈転送先・DEAD SURVIVAL〉灰乃は鞄を肩へ掛け、低い位置で束ねた濃紺の髪を手早く結び直した。薬を収めた銀色のピルケースが内ポケットにあることを指先で確かめ、壁へ手をつきながら揺れが収まるのを待つ。昨夜公開された周辺居室ランキングで自分の名が1位へ上がった直後から、航志の通話とメッセージは途切れていなかったが、すべて無視していた。彼が知りたいのは両親の最期でも妻の無事でもなく、灰乃だけが短期間でLEVEL3へ到達した方法だった。
轟音が不意に途切れると、耳の奥に残った振動だけが低く鳴り続けた。扉脇の監視表示は、昨日までのマンション廊下ではなく、白い照明が等間隔に連なる長大な通路を映している。天井は大型車両が通れるほど高く、左右には番号の異なる居室扉が果ての見えない距離まで並んでいた。ところどころで扉が開き、武器や荷物を抱えた人間が警戒しながら顔を出している。その人数の多さだけで、これまでの区域とは規模が違うことが分かった。
〈参加者2048名〉
〈昼間のプレイヤー間攻撃制限はありません〉 〈夜間、変異感染者が出現します〉 〈区域内には多数のランダムボックスが配置されます〉昼間であれば感染者に襲われにくい代わりに、目の前の人間を恐れなければならない。部屋へ戻れば扉に守られるが、ランダムボックスを得られず、上位強化に必要な資源も集まらない。外へ出る者ほど強くなり、強くなった者ほど奪う価値が上がる仕組みだった。灰乃は喉の奥へ上がった乾きを、朝に口へ含んだ水の感触を思い出しながら飲み下した。
最後の1行が表示された途端、遠くで誰かが叫び、硬いもの同士がぶつかる音がした。昼間の殺傷を禁じないという宣告を、システムはあまりにも平坦に告げている。灰乃は扉をすぐには開けず、監視範囲を左右へ動かした。死角に潜む人影がないことを確認してから解錠し、片足ずつ慎重に廊下へ踏み出す。空調の風は冷たかったが、金属と汗に混じって、すでに乾き始めた血の匂いが漂っていた。
数室先の扉にもたれていた航志が、灰乃を見つけるなり身体を起こした。その隣には泉帆が立ち、胸元へ小さな鞄を抱えている。航志は居室をLEVEL3まで上げ、泉帆を〈一時保護対象〉として連れてきたらしく、腰には見覚えのない短剣が下がり、彼女の腕には青い防護布が巻かれていた。登志江と篤一の死によって空いた資源が、誰へ集められたのかを尋ねる必要はなかった。義父母が生きている間は家族全員のためだと言っていた物が、2人を失った翌朝には、航志と泉帆の装備へ姿を変えている。
「灰乃」
航志は名を呼びながら歩み寄ったが、以前のように腕を取ろうとはしなかった。声は柔らかく抑えられ、眉尻には疲れた男らしい陰が作られている。住宅を売る相手へ不安を打ち明けさせるとき、彼が何度も使っていた顔だった。灰乃が足を止めないと分かると、航志は歩幅を合わせ、泉帆も少し遅れてついてきた。
「昨日は悪かった」
「何がですか」
「泉帆のこと。母さんのこともある。今は夫婦で争ってる場合じゃないだろ」
母を失ったことと不倫を同じ息で並べ、どちらにも具体的な謝罪をしない。篤一の名を出さなかったのは、灰乃とともに地下へ向かったあと死んだ経緯を疑っているからなのか、それとも父親の死さえ交渉材料にならないと判断したからなのか、表情だけでは読み切れなかった。ただ、航志の目が灰乃の鞄と腰回りを何度も往復していることだけは明白だった。
「夫婦?」
「まだ離婚してない。俺はお前の夫だ」
「世界が終わってからだけ便利に使うんですね、その立場」
航志の顔から作り物めいた疲労が薄れ、頬の筋肉が硬くなった。すぐに笑みを戻そうとしたものの、唇の端はわずかに引きつっている。泉帆は2人の間へ割って入らず、航志の肩越しから灰乃を窺っていた。自分が責められれば弱った顔を見せ、航志が不利になれば黙って支えているように見せる、その距離の取り方も変わらない。
「言い方ってものがあるだろ。俺はお前の病気だって心配してる」
「私の病気と、あなたの不倫に何の関係がありますか」
「そうやって何でも理屈で返すから話ができないんだよ」
灰乃は応じず、廊下の壁へ浮かぶ区域図を見上げた。午前9時まで残り7分。1周目と配置が同じなら、最初の赤箱は中央交差区画へ出現し、その46秒後に東側の補助通路で紫箱が生成される。赤箱へ群がる者たちの注意が逸れている間に向かえば、戦闘を避けて確保できるはずだった。
中央へ近づくほど人の密度が増し、剣、鉄パイプ、包丁、工具など、手にしている武器も露骨になった。床には境界線を示す黄色い帯が引かれ、その内側だけが箱の出現候補地点らしい。誰もが互いの手元と足運びを窺い、肩が触れただけで怒鳴り声が上がる。昨日までなら同じ建物ですれ違っても会釈さえしたであろう人々が、まだ現れてもいない箱のために、殺せる距離を測っていた。
航志は灰乃から離れず、泉帆を自分の背後へ置いた。守っているように見える位置だったが、灰乃には、危険が起きたときに彼女を盾として使える距離にも見えた。1周目の最後に鉄扉の向こうから見た夫の顔を思い出すと、右腕の皮膚が傷もないまま疼いた。航志は自分の生存を脅かさない範囲でしか、誰かを守らない。
午前9時になった瞬間、黄色い境界線の中央へ赤い光柱が立った。床材を押し上げるように赤箱が出現し、警告音が鳴り終わるより早く、周囲の人間が一斉に走り出す。最前列の男が箱へ手を伸ばした直後、後頭部を鉄パイプで殴られ、前へ崩れた。倒れた身体を踏み越えた女は髪を掴まれて引き戻され、その横では刃物を持った若者が、近づくなと叫びながら無差別に腕を振っている。
箱を中心に人の塊が膨らみ、怒号と悲鳴が天井へ反響した。赤箱の蓋へ触れた者は次の瞬間には引き剥がされ、奪われた武器がさらに別の手へ渡っていく。誰が最初に殴ったのかも、誰が箱の所有者なのかも、もう判別できない。床へ落ちた血を踏んだ靴が滑り、転んだ人間の上へ何人も重なった。
灰乃は争いへ背を向け、東側の補助通路へ足を速めた。赤箱の出現に気を取られた人々は、幅の狭い枝道へ入る彼女をほとんど見ていない。灰乃は46秒を胸の内で数えながら、消火設備と配線盤の位置を確かめた。1周目ではこの奥に紫箱が現れたことを後から知ったが、到着した時には空箱しか残っていなかった。今回は、壁際のくぼみに紫色の光が集まり始める瞬間から見ていた。
箱が形を得ると同時に、灰乃は両手で抱え上げた。所有権を示す輪が手首を巡り、表面の光が消える。赤箱ほど大きくはないが、医療品や特殊道具が入っていれば、コイン以上の価値を持つ可能性がある。灰乃が来た道へ振り返ると、通路の入口に航志が立っていた。
彼は中央の争いへ加わらず、灰乃だけを追ってきていた。背後には泉帆もいるが、息を切らしながらも箱へ向けた視線だけは鋭い。航志は灰乃が抱える紫箱を見てから、周囲に他の人間がいないことを確かめるように左右を見回した。先ほどまでの謝罪も柔らかな声も、目からはすでに消えていた。
「灰乃、それを共有しろ」
「嫌です」
「俺たちは夫婦だぞ」
「だから?」
航志の眉が跳ね上がった。問い返されること自体が予想外だったように数秒黙り、それから言い聞かせる口調を作って近づいてくる。灰乃は箱を抱えたまま後退せず、彼との間に3歩分の距離を残した。
「お前のものは俺のものでもあるだろ。今までだってそうしてきた」
同じ言葉を、灰乃は1周目にも聞いていた。あの時は希少設備を胸へ抱き、見つけたのは自分だと訴えたが、航志は笑って取り上げた。夫婦なら所有権を分ける必要はないと言いながら、設備を泉帆の部屋へ置くことには何の矛盾も感じていなかった。共有という言葉は、灰乃から奪うときだけ開く扉だった。
「私があなたの愛人と物資を共有する理由はありません」
航志の表情から、最後に残っていた夫らしい仮面が剥がれた。目元が狭まり、顎が前へ出る。泉帆は傷ついたように息を呑んだが、灰乃へ謝る代わりに、航志の袖をそっと摘まんだ。
「お前、こんなときまで泉帆に嫉妬してるのか?」
「嫉妬しているように見えますか」
「じゃあ何なんだよ。昨日から母さんも父さんも死んで、泉帆だって怯えてる。お前だけ何も失ってない顔をして、箱もコインも独り占めしてるじゃないか」
何も失っていないという言葉が、胸の内側へ冷たく触れた。灰乃は1度死に、家族だと思っていた者たちが自分を人間として数えていなかった事実まで持ち帰っている。鉄扉の外で奪われた命も、濁った水を啜った朝も、裂けた腕を古い布で縛った夜も、航志にとっては存在しない出来事だった。それでも、それを彼へ説明するつもりはなかった。航志は知らないから裏切ったのではなく、知ったところで自分に都合のよい解釈へ変える人間だった。
「私の部屋を強化したのも、箱を取ったのも私です。欲しいなら、自分で取りに行ってください」
「俺はお前を心配して言ってるんだ。病気持ちのお前が大量の物資を抱えたら狙われる。俺が管理した方が安全だろ」
「あなたが管理した物は、最後には泉帆さんの手へ渡ります」
泉帆が小さく首を振り、「そんなつもりじゃない」と囁いた。その声は灰乃へ向けられているようで、実際には航志へ聞かせるためのものだった。航志はすぐに彼女を庇うように半歩前へ出たが、その動きのせいで、自分の主張が正しいことを自ら証明しているとは気づいていない。
補助通路の外から、中央の争いが続く音が響いていた。赤箱を奪ったらしい誰かの歓声が上がり、直後に銃声が1発だけ鳴る。泉帆の肩が跳ね、航志も反射的にそちらへ顔を向けた。灰乃はその隙に紫箱をアイテムスロットへ収納し、両手を自由にした。
「勝手に消すな。何が入ってるか見せろ」
「所有者以外へ開示する義務はありません」
「妻が夫に隠し事をするな」
航志が1歩踏み込んだ瞬間、廊下の反対側から、赤箱出現を告げる警告音がもう1度鳴った。中央に残っていた人々がざわめき、血に濡れた武器を持ったまま一斉に音の方向へ顔を向ける。灰乃も視線だけを動かし、補助通路の出口越しに赤い光を捉えた。
新たな箱は、最初の争奪地点から離れた反対側の壁際に現れていた。だが、そこへ殺到する者はいなかった。赤箱の前には黒い救助用ジャケットを着た長身の男が立ち、右手には刃の欠けた大型斧が下げられている。濡れた黒髪の下、左の眉尻には古い裂傷の跡があり、暗い琥珀色の目は、近づこうとする人間の足を止めるほど静かに鋭かった。
男の足元には、通常の感染者よりひと回り大きい変異感染者が3体倒れていた。首を断たれたもの、胸部を斧で割られたもの、壁へ叩きつけられたまま動かないものが、黒い血を床へ広げている。夜間に現れた個体を1人で仕留め、その場で朝を迎えたのだとすれば、赤箱へ手を出そうとする者がいないのも当然だった。
空中へ周辺ランキングが展開され、昨日まで灰乃の名があった最上段を別の名前が占めた。そこには〈1位 縵谷玄理・LEVEL5〉と表示されている。灰乃はその文字を見つめた。1周目で数多くの強者の名を聞き、命を奪う側と奪われる側のどちらにも、その順位を利用してきた人間を知っている。それでも、縵谷玄理という名だけは1度も耳にしたことがなかった。開始からわずか数日でLEVEL5へ達し、変異感染者を3体も倒せる人間がいたなら、噂にならないはずがない。自分が知らなかっただけでは片づけられない違和感が、背中へ薄い冷気となって這い上がった。
男が大型斧についた黒い血を振り落とし、わずかに顔を上げた。人の群れを越えた視線が、迷うことなく灰乃のいる補助通路へ向いた。その瞬間、航志の声も赤箱を巡る怒号も遠のき、灰乃には、1周目には存在しなかった何かがこちらを見返したように感じられた。
〈フロア・パージ〉の詳細説明が始まる。新たに接続された居住区では、各プレイヤーへ6時間ごとに〈生存家賃〉が課される。家賃は固定額ではなく、その時点における全プレイヤーの支払額によって順位付けされ、上位半数だけが居住権を維持できる。下位半数は〈家賃滞納者〉として居室を没収される。没収後に何が起きるのかは説明されない。ただしシステムは冷淡に告げる。〈居室を失ったプレイヤーの生存は保証されません〉航志はすぐに灰乃のコインへ目をつける。夫婦共同所有なら灰乃が稼いだコインも共有資産として扱われるはずだと主張し、自分の生存家賃へ使おうとする。だが灰乃は、航志が共同所有権を成立させた瞬間から〈連帯支払〉を有効化する。航志の画面が赤く光る。〈共同所有者間の債務を統合しました〉〈度会航志の所持コインから共同居住維持費を徴収します〉航志のコインが一気に減る。「おい、何した!」「夫婦なんでしょう?」灰乃は静かに返す。「私の財産があなたのものなら、あなたの財産も私のものですよね」航志は初めて、自分が取得した配偶者権限が一方的な支配権ではないことを理解する。さらに灰乃は薬ケースについて〈生命維持用個人医療品〉として所有権異議申立てを行う。診断情報と過去の処方履歴がシステムへ照合され、薬ケースは共有財産ではないとの判定が下る。航志の手から銀色のケースが消える。次の瞬間、灰乃の手の中へ戻る。灰乃は蓋を開け、錠剤の数を確認する。1錠も減っていない。その様子を見ていた玄理が短く息を吐く。航志は怒りを隠せない。「そんなに俺を敵に回したいのか」「逆です」灰乃はケースをしまう。「最初から敵だった人を、ようやく敵として扱っているだけです」そこへ第1回家賃額の暫定ランキングが表示される。玄理は十分なコインを持っている。灰乃も〈ご近所互助ラジオ〉によって余裕がある。だが新たに合流したプレイヤーの多くは、圧倒的に足りない。24人の視線が互いの所持品へ向き始める。そして世界チャットへ最初の書き込みが流れる。〈殺した相手のコインは誰が受け取る?〉誰も答えない。その数秒後。廊下の奥から銃声が響いた。
扉が開ききるまでの数秒が、灰乃には異様に長く感じられた。補強された金属板の向こうから最初に見えたのは、航志の右手に握られた銀色の薬ケースだった。そのあとに整えられた短髪と、終末前から変わらない穏やかな顔が現れる。背後では長い廊下の白い照明が航志の輪郭を縁取っており、感染者も砲撃も存在しない夕方に仕事から戻ってきたような光景だった。違うのは、ここが灰乃自身の手で獲得し、強化し、命を守るために閉ざした居室であり、その扉を灰乃が一度も許可していないのに夫が開けたということだった。「ただいま、灰乃」航志はそう言うと、玄関の境界を当然のように越えた。床の手前で靴を脱ぎ、揃えて端へ寄せる仕草まで、以前住んでいたマンションと同じだった。まるで何日も前からここで暮らしていた夫が帰宅しただけのように、室内を見回しながら一歩進む。その足が完全に居室へ入る前に、玄理が灰乃と航志の間へ身体を滑り込ませた。「止まれ」玄理の声は低く、大きくはなかった。それでも航志の足が一瞬止まり、黒い長柄武器へ伸びた玄理の手へ視線が落ちる。右肩の傷を庇っているとは思えないほど動きは速く、あと半歩でも航志が近づけば、そのまま武器を振れる距離だった。茉緒は奥で啓吾を壁際へ下げ、灰乃自身もいつでも扉側から離れられるよう重心を移した。玄理の指が武器の柄を握り込んだ瞬間、室内へ鋭い警告音が響いた。赤い光が2人の間へ垂直に走り、半透明のシステム表示が強制的に展開される。玄理の武器には触れていないのに、見えない抵抗へ押し返されたように先端が止まり、床から淡い赤色の格子が立ち上がった。灰乃は反射的に表示を読み、攻撃を止めるよう玄理の腕へ手を添えた。〈共同所有権保護期間中です〉〈共同所有者または第三者による故意の殺傷行為を確認した場合、対象居室の保護機能を停止します〉警告の下には、保護停止の対象として防御障壁、外部侵入拒否、夜間保護、収納保全の4項目が並んでいた。航志をここで傷つければ、彼1人を追い出せるかどうか以前に、この部屋そのものが感染者や他プレイヤーへ開かれる可能性がある。玄理も同じところまで読んだらしく、武器を下ろしはしなかったものの、刃先だけを床へ向けた。航志はその変化を確認すると、右手の薬ケースを見せつけるように持ったまま薄く笑った。「残念だったな。ここは俺の部屋でもあるらしい」「私の部屋で
航志に薬ケースを奪われてから、灰乃が最初にしたのは残っている予備薬をすべて机の上へ並べることだった。普段は銀色のケースへ数日分だけ移し、残りを別に保管していたため、完全に手元から失ったわけではない。それでも、袋から出した錠剤を一つずつ数えていくと、安心できる量ではなかった。終末以前のように病院へ行けば処方してもらえる世界ではなく、次に同じ薬が手に入る保証もない。広告恩寵で医療品が出る可能性はあるが、必要な薬剤を指定して引き当てられる仕組みではなかった。茉緒は灰乃の向かいへ座り、薬の包装と灰乃が覚えている処方内容を照らし合わせた。安全区域で検出された潜伏感染者が誰なのかは依然として分かっておらず、4人は一定距離を保ち、直接触れる物も共有しないようにしている。それでも灰乃の薬が奪われたことを知ると、茉緒は自分の居室から持ってきた医療記録用の端末を広げ、心疾患の薬剤候補を一つずつ確認した。表情はいつも以上に険しく、少しでも曖昧な情報が出るたびに灰乃へ問い直す。「代替薬を適当に使うな。心臓の薬は名前が似てるからで選ぶものじゃない」「分かっています」「分かってる奴が、残りを日数で薄く割って飲もうとするなよ」灰乃は返事をしなかった。考えていたことを見抜かれたらしい。薬を長く持たせるため服用間隔を勝手に延ばせば、必要な血中濃度を維持できず、かえって危険が増す可能性がある。茉緒は人間専門の医師ではないと言いながら、その程度のことを知らないほど薬剤知識が浅いわけではなかった。「なら取り返す」茉緒は断定するように言った。灰乃は机の端へ指を置き、航志から届いた再統合審査の残り時間を見る。22時間余り。審査が終わるまで1時間ごとに何かが奪われる可能性があり、次が薬とは限らない。武器、防御設備、保存水、それどころか広告恩寵に関係する端末まで〈共有必需品〉と判定されれば、航志の手へ移る可能性がある。残り時間を待ってから動くという選択は、最初から存在しなかった。玄理は壁際に立ったまま、灰乃の薬と残高表示を交互に見ていた。やがて自分の端末を開き、医療系ランダムボックスの出現情報を検索する。ランキング上位の彼が持つコインは少なくなく、さらに赤箱から得た物資もいくつか残っているらしい。「俺のコインを使う。医療ボックスを買える奴を探す」「必要ありません」「必要だろ」「あなたの資
安全区画を出た4人は、互いに2歩以上の距離を取ったまま中央通路へ散った。〈潜伏感染反応を1名検出しました〉という表示は消えず、誰が該当者なのかだけが頑なに伏せられている。茉緒は最初に自分の手首と首筋を確かめ、啓吾にも袖をまくるよう指示したが、目視で分かる噛み傷や引っかき傷は見つからなかった。玄理の右肩と左腕には夜狩りで負った傷があるものの、いずれも感染者の体液が直接入った形跡はなく、灰乃も自分に共有された浅い裂傷以外に異常を感じていない。それでもシステムが反応した以上、誰か1人の身体の中で何かが始まっていることだけは確かだった。「全員、自分の部屋に戻るまで誰にも触るな。体温、意識状態、瞳孔、痙攣の有無を30分おきに確認する」茉緒の声には苛立ちが混じっていたが、恐怖で判断を失ってはいなかった。人間専門の医師ではないと言いながら、少なくとも何もせず待つよりはましな監視手順を組み立てている。啓吾は青ざめた顔で何度も頷き、玄理は灰乃の腕へ視線を向けたあと、自分の傷口を見下ろした。灰乃も同じことを考えていた。バインドで負傷を共有している以上、感染まで共有されるのかは表示されていない。もし玄理が感染していれば自分へ影響する可能性があり、逆も同じだった。安全区画の白い外壁が背後で沈み始める。7人を消した霧も、そこへ縋りついていた手の跡も、数分前の出来事とは思えないほど綺麗に消えていく。その空白を見つめていた灰乃は、天井近くのメンテナンスパネルが開く音に気づいた。砲撃で破壊された箇所から1人の男が降りてくる。配線を掴んで床へ着地した航志は、服の肩や膝へ埃をつけながらも怪我らしい怪我をしておらず、自分だけが別の逃げ道を見つけたことへ安堵したような息を吐いた。灰乃と目が合うと、航志の表情が変わった。安全区画の外で7人が消えたことより、灰乃が4人の枠へ入って生き残ったことを確認した時の方が目の奥へ強い光が宿る。その視線は、昼間に紫箱を抱えていた灰乃を見た時と同じだった。妻が無事だったことへの安堵ではなく、まだ自分の手へ戻せる資源が残っていると確かめた人間の目だった。「灰乃」呼ばれても灰乃は動かなかった。玄理が半歩だけ身体の向きを変え、航志と灰乃の間へ割って入れる位置を取る。茉緒は感染反応の件がある以上、今ここで余計な接触を増やすなと言いたげに眉を寄せたが、航志はそんな空気を
〈閉鎖まで残り10分〉という数字が点灯した直後、安全区画の周囲へ新しい表示が重なった。乳白色の壁に守られた内部には、大人が十数人立っても余裕がありそうな広さがある。それなのに入口の上には〈入室可能枠:4〉と明記され、その下へ〈入室には避難鍵が必要です〉という条件が追加された。さらに4つの光点が区域図上へ散らばり、〈避難鍵を配置しました〉と通知された瞬間、それまで互いの様子を窺っていた12人が一斉に走り出した。誰かが先に動けば、残りも止まってはいられない。灰乃は中央から最も近い北側の光点を選び、玄理とは別方向へ走った。肩の痛みも睡眠不足も残っていたが、今は自分の身体を完全に休ませる余裕がない。廊下の角を曲がると、壁面の非常設備箱が白く発光しており、その中に親指ほどの銀色の鍵が浮いていた。灰乃が掴むと〈避難鍵・所有者登録完了〉という表示が出て、残る光点が3つへ減る。玄理もほぼ同時に西側の鍵を確保したらしく、区域図上で彼の名前へ鍵の印がついた。その動きに迷いはなく、自分の分を取った直後から周辺の生存者の位置まで確認している。3本目の鍵を得たのは椹木啓吾だった。電子錠や建物構造へ詳しい彼は、他の者が点滅する案内表示だけを追う中、サービスパネルの裏側へ回り込み、非常用配線に沿って出現位置を特定したらしい。細い身体を壁際から滑り出させた時には、すでに銀色の鍵を握っていた。残り1本。その表示が出た途端、中央南側へ5人が殺到した。その中に航志もいる。鍵は天井から吊られた非常梯子の下へ出現し、最初に飛び込んだ男が指先で触れかけたところを、別の男が肩から突き飛ばした。床へ倒れた身体を航志が踏み越え、横から伸びた腕を肘で払い除ける。昼間の箱争奪戦と変わらない殴り合いが始まり、誰も鍵以外を見なくなった。土師茉緒だけが、その輪へ入っていなかった。少し離れた壁際で、争奪戦の最初に転倒した男の傷を押さえている。男は脇腹を何かの刃で深く切っており、指の間から大量の血を流していた。茉緒は自分の安全区画入りが遅れることを理解しているはずなのに、シャツを裂いて圧迫し、出血点を確かめながら「押さえろ、死にたくなきゃ手を離すな」と怒鳴っていた。玄理がその姿を見た。自分の鍵を握ったまま数秒立ち止まり、そのまま茉緒の方へ歩こうとする。「これを使え」茉緒が顔を上げる前に、灰乃は玄理の腕を掴んだ。
『大好きな家族に、もう1度会いたいですか?』明るすぎる少女の声が、血と消毒薬の匂いが残る居室へ響いた。灰乃は反射的に黒い端末へ手を伸ばし、画面端の閉じる表示を押したが、指先の下で白い印が一度沈むだけで映像は消えなかった。音量ボタンも反応せず、机へ伏せても再生は止まらない。終末前の住宅広告を思わせる明るい居間では、数十分前に玄理自身の手で処置された小春が、黄色いウサギのリュックを背負って笑っていた。画面の中の小春には首の後ろの噛み傷も、発症前に浮かんだ汗もない。頬には健康な赤みがあり、黒髪は左右へ綺麗に結ばれ、その背景には白いカーテンと湯気の上がる食卓まで映っている。窓の外では鳥が飛び、誰かが焼いたらしいパンが籠へ盛られ、終末など最初から存在しなかったような光景だった。灰乃がほんの少し視線を外すと映像は停止し、〈視聴を継続するには広告をご覧ください〉という文字が中央へ浮かぶ。まるで死んだ子どもの姿を最後まで見つめることまで、報酬の代価として要求しているようだった。『今だけ家族再会キャンペーン!』軽快な電子音が弾け、小春の横へ色とりどりの風船が浮かんだ。少女は両手を広げ、その後ろでは顔の見えない男女が食卓へ料理を並べている。母親と父親を模しているのかもしれないが、小春の本当の家族なのかどうか、灰乃には確かめようがない。その画面下へ、報酬欄がゆっくりと開いた。〈最後まで視聴すると安全区域情報を獲得できます〉玄理の顔から残っていた血の気がわずかに引いた。彼は壁際に置いた黄色いリュックと端末の中の少女を交互に見てから、低く言った。「見るな」灰乃は端末を持ち直した。「見ます」「蓼丸」「情報が必要です」「他の方法を探せ」灰乃は答えず、表示された選択肢へ目を落とした。〈スキップする・報酬なし〉と〈最後まで見る〉。安全区域という言葉がどこまで信用できるかは分からないが、少なくともシステムがわざわざ報酬として提示する以上、この高危険区域を生き残るために関係する情報である可能性は高い。目の前にある情報を、苦痛だからという理由だけで捨てる余裕はなかった。灰乃が〈最後まで見る〉を押すと、30秒のカウントが始まった。小春は画面の中央へ座り、白い皿へ桃の缶詰らしい果肉を並べている。黄色いリュックの少女が桃を好きだったことを、灰乃はまだ知らない。それでもあまりにも生活